「少年老いやすく、少女はさらなり。生い茂った雑木林の頭はサラ地となり、紅のリンゴの頬は下に垂れて西洋梨となった。これを無情というが、ぼくらは一人無常の海を漂うているのではなく、みんな一緒に呵責ない時の流れを生き永らえてきたのだなあという思いはどうして、むしろ愉快なもので、うまい酒を飲みながら語らううちに、こうして年をとったのはとても幸せなことだったのだという、錯覚か迷妄かしらんが、そんな気分さえ腹の底の方からぬくもりのように立ちのぼってくるのである。」
上記は、芦原すなお氏の『ミミズクとオリーブ』に収録された「おとといのおとふ」(創元推理文庫 初版:2000年10月20日)の一節で、主人公が高校時代の同窓会に出席した折りの感慨を述べたものである。
本シリーズは、「美味しい郷土料理を給仕しながら、夫の友人が持ち込んだ問題を次々と解決してしまう新しい型の安楽椅子探偵」という設定だ。なんというか、身につまされた記述であったので長々と引用した次第である (あっ、といっても僕の頭はまだサラ地になっていないのだがね)。
かつて、矢作俊彦、志水辰夫、逢坂剛、大沢在昌、誉田哲也など、ハードボイルド系のミステリを好んで読んだものである。 ひと頃からはいろいろな意味で重く感じられ、この手のモノはとんとご無沙汰である。最近では、『花の下にて春死なむ』『タルト・タタンの夢』等といった日常的な場面での謎を扱うコージーミステリを片手間に読んでいる。そう、そう、「紅雲町珈琲屋こよみシリーズ」なんかも肩肘はらずに読めるね。
今回もまたシーボルディーの話である。
ご承知の通り、クレマチスに花びらはない。花びらに見えるのは萼片なのである。それは、このシーボルディーとて当て嵌まる。この三葉の写真をよくご覧いただくと、その萼片の数がそれぞれ異なることがわかる。上から、4枚、5枚、6枚となっているのだ。
このシーボルディーは四季咲きである。今年3月上旬に小さな苗を購入したわけだが、春には上記のように見事な花を付けてくれた。花弁も大きく、萼片はそれぞれ6枚であることがわかる。
草本にとって、1年という歳月が如何ほどのものか、とんと見当はつかない。一年草、二年草、多年草と、それぞれによってエージングは異なる。シーボルディーは多年草に分類されているが、四季咲きとはいえ、年に二度も花を咲かせるなんて所業は過酷以外の何物でもないのではなかろうか(もちろん、草本の心情など汲むことさえ能わぬヒト属の個人的な感想にしか過ぎないのだが)。
春咲きと秋咲きとを比べると、明らかに春咲きのほうが大輪で、なおかつ萼片も6枚と一定しているかに見える。
「少年老いやすく 少女はさらなり」は「少年易老學難成」(若いと思っているうちにすぐに年老いてしまい、志す学問は遅々として進まない。年月は移りやすいので寸刻をおしんで勉強せよということ。)をオマージュしたものであることは容易に察しがつく。そして、「少年だけじゃないぜ、その対岸に位置する少女でさえも同じことなんだよ!」 とのアイロニカルなフレーズを添えている。
わずか一歳(ひととせ)の内とはいえ、萼片に変異が窺われ、花も矮小化したシーボルディーもまた然り、生きとし生けるものとして、時の流れには抗えない存在なんだね。





